日本梅の会の沿革について
日本梅の会は、「梅の会」として昭和7年(1932)2月11日に発足しました。 当時、この日は紀元節と呼ばれ、建国の祝賀行事が行われていました。その一つとして、日比谷公園では「梅花展覧会」が行われました。梅などの各種盆栽の展示、梅切り花の展示、鶯の展示をはじめ、盆景・生け花・各地の梅名所の写真・参考書・錦絵など二百点を超える出展が行われたといいます。当時、梅は紀元節の頃花開き、神国日本の象徴として、この日を『梅花節』とも称せられたといいます。
当日午後1時から、この日比谷公園で「梅の会」の発会式が行われ、80名余りが出席。その席で
・会長 (欠)
・副会長 理学博士 三好学
・顧問 文学博士 三上参次、男爵 井上淸純、男爵 平野長祥
・幹事 井上 清 他8名
の役員が決まりました。副会長の三好学博士は、日本にヨーロッパの植物生態学を紹介する一方、天然記念物の保存に尽力された方で、現在のエコロジー活動の原点ともいえる植物学者です。また、筆頭幹事の井上清氏は、当時の東京市保健局公園課長、㈳日本造園学会会長、㈶東京都公園協会理事長を歴任された日本公園行政の泰斗のひとりです。「梅の会」の設立も井上清氏が中心となり、東京市公園課の関与が大きかったとされています。
翌、昭和8年(1933)に機関誌「梅」の創刊号を発刊。表紙題字は永田青嵐(当時の東京市長:永田秀次郎)氏で、現在も使用しています。
昭和12年(1937)には、新に明治神宮宮司 鷹司信輔公爵を会長に推戴。その後、昭和16年(1941)12月に太平洋戦争が開戦、昭和17年(1942)の機関誌第10号を発刊したものの、翌年姉妹紙「桜」との合併号刊行の後「梅の会」は永い中断の時代を迎えることになります。
昭和20年(1945)戦争の時代が終わり、平和の時代を迎え多くの文化活動の復活が行われましたが、「梅の会」復活の兆しは中々見られませんでした。しかし、昭和32年盆栽界の長老 小林憲雄氏が疎開先から帰京され、それを機に復活の機運が高まり、昭和33年2月15日「梅の会」復活の梅花鑑賞会を小石川後楽園で開催、翌年には機関誌「梅」も再刊第1号(通巻第12号)を刊行しました。
当時「梅の会」の事務所は、東京都建設局公園緑地部内に置かれ、東京都が愛好団体を運営することになっていましたが、行政改革による外郭団体の整理が進められ、平成8年(1996)2月24日、府中郷土の森公園で行われた総会で、独立した愛好者団体としての存続が了承され、現在に至ります。
会長については、明治神宮宮司 鷹司信輔公爵が初代会長に就任。これは、明治天皇が梅に関心を寄せられ、蒲田梅屋敷への行幸、皇居内寒香亭での梅の鑑賞などから、ゆかりのある明治神宮宮司に会長をお願いしたとのことでした。以後、歴代の会長は次のとおりです。
初代会長 鷹司信輔(昭和12年就任)
2代会長 甘露寺受長(昭和35年就任)
3代会長 伊達 巽(昭和51年就任)
4代会長 高沢新一郎(昭和56年就任)
5代会長 桜岡 威(平成4年就任)
6代会長 北村信正(平成5年就任)
7代会長 大坪孝之(平成22年就任、現在に至る)
4代会長までは明治神宮宮司に会長をお願いしました。 5代会長には「水戸梅の会」の元老、桜岡 威 氏に就任いただきましたが、健康上の理由から1年で退任。6代会長には北村信正氏に就任いただきました。在任期間は17年間で、品種の同定、保存をはじめ全国各地の梅名所の普及を図るなど、「梅の会」事業に努められました。更に、IFLA(国際造園家協会)の副会長を務める中、中国梅花蝋梅協会会長で、北京林業大学教授の陳俊愉と親交を深められ、昭和63年(1988)・平成2年(1990)の2回にわたり「江南探梅考察団」を結成し、中国へ訪問。中国側も平成6年(1994)に「中国探梅訪日団」を結成し、日本を訪問。お互いの親交を深めました。「梅の会」は今後の国際交流を考慮し、平成13年(2001)に名称を「日本梅の会」に改称することになりました。7代会長には、元東京農業大学助教授の大坪孝之氏に就任いただき、会の運営効率化を図るため平成26年(2014)以降は、機関誌「梅」を通じての誌上総会に変更、現在に至ります。